ファミリーヒストリー
中秋節の一日、錦州に行ってきた。
錦州は戦時下の満州で紡績の街として栄えていた。
この時代のことはデリケートなことなので
中国の同僚に話したことはないが
当時、私の祖母、祖父、祖母の妹などがこの街で暮らしていた。
祖父は紡績会社の機械技師だったそうだ。
日本の敗戦が決まったあと、ロシア兵を恐れて女性は丸坊主にした話、
食べるものが無くなった祖父の家にこっそり卵を置いていってくれた中国の同僚の話など、よく祖母から聞かされた。
中国にデザインのOJTをしているが、
根っこのところにこう言う話を聞いてきた影響がある。
祖父は深酒をする人だったが、白酒の一気なんて一緒にやっていたのだろうかと想像する。
遼寧省の人は気性は荒いが裏表がない人が多い。
もうあまり当時のものは残ってないが
錦州へ行ってみた。
高速鉄道で錦州南駅へ。
トウモロコシ畑の中の辺鄙な場所にある。
バスで旧市街へ行くのだが前のお爺さんが小銭がなくて列から外れる。
追い越すときに手元を見ると一元足りない。
崩してあげるほどの小銭もなかったので一元渡して一緒に乗ろうとすると満員でお爺さんの前で扉が閉められてしまった。お互い顔を見合わせて苦笑。
旧市街の南端、古塔から観光スタート。


祖父母の新婚時代の写真にもあった、錦州といえばコレの観光地。
戦後修繕されたそうだが、当時の絵葉書そのまま。
後ろの天后廟にも行ってみる。
海のイメージはなかったが、香港や横浜で通った廟にご縁を感じる。

タクシーで錦州の駅へ。
ここも当時の駅だそうだ。

その駅の脇の地下道を通る。
ここも当時のトンネルだそうだ。
多くの人が単車が通る。
衝突しそうで怖い。黄泉の国から戻る洞窟は振り向いたらいけないが、まさに同じ。
自分のペースでひたすら止まらず歩いて、単車に避けて頂くしかない。

トンネルを抜けて西へ。
この辺のレンガの平屋の建物は当時のものらしい。


さらに西へ。
満鉄の官舎があるそうだが…
この建物?ちょっと確信はもてない。





祖母は故郷の家族を養うために九州から韓国ソウル、満州へ、そこで祖父と結婚した。
そして自分の妹を呼び寄せタイピストの学校に通わせたそうだ。
錦州もあの頃から…何十年経って、多くのものはなくなってしまったが、道端の焼烤、焼き肉串の煙、中国語、こんな中を祖母も暮らしていたんだろうかと考えながら帰路につく。
あの時期の満州暮らしを知る親戚はもういない。何十年経って残っているのは我々のような子供や孫、人だけだ。
祖父母は当時今のような時代が来ることを想像しただろうか。
今回かつて祖父母が住んだ土地を訪れて、人は家族と生きていく為に日々を積み上げるんだなあと思ったりもした。
皆様も是非聞けるうちにおじいちゃんおばあちゃんに聞いてみてほしい。
▼ポチッとお願いします。
錦州は戦時下の満州で紡績の街として栄えていた。
この時代のことはデリケートなことなので
中国の同僚に話したことはないが
当時、私の祖母、祖父、祖母の妹などがこの街で暮らしていた。
祖父は紡績会社の機械技師だったそうだ。
日本の敗戦が決まったあと、ロシア兵を恐れて女性は丸坊主にした話、
食べるものが無くなった祖父の家にこっそり卵を置いていってくれた中国の同僚の話など、よく祖母から聞かされた。
中国にデザインのOJTをしているが、
根っこのところにこう言う話を聞いてきた影響がある。
祖父は深酒をする人だったが、白酒の一気なんて一緒にやっていたのだろうかと想像する。
遼寧省の人は気性は荒いが裏表がない人が多い。
もうあまり当時のものは残ってないが
錦州へ行ってみた。
高速鉄道で錦州南駅へ。
トウモロコシ畑の中の辺鄙な場所にある。
バスで旧市街へ行くのだが前のお爺さんが小銭がなくて列から外れる。
追い越すときに手元を見ると一元足りない。
崩してあげるほどの小銭もなかったので一元渡して一緒に乗ろうとすると満員でお爺さんの前で扉が閉められてしまった。お互い顔を見合わせて苦笑。
旧市街の南端、古塔から観光スタート。


祖父母の新婚時代の写真にもあった、錦州といえばコレの観光地。
戦後修繕されたそうだが、当時の絵葉書そのまま。
後ろの天后廟にも行ってみる。
海のイメージはなかったが、香港や横浜で通った廟にご縁を感じる。

タクシーで錦州の駅へ。
ここも当時の駅だそうだ。

その駅の脇の地下道を通る。
ここも当時のトンネルだそうだ。
多くの人が単車が通る。
衝突しそうで怖い。黄泉の国から戻る洞窟は振り向いたらいけないが、まさに同じ。
自分のペースでひたすら止まらず歩いて、単車に避けて頂くしかない。

トンネルを抜けて西へ。
この辺のレンガの平屋の建物は当時のものらしい。


さらに西へ。
満鉄の官舎があるそうだが…
この建物?ちょっと確信はもてない。





祖母は故郷の家族を養うために九州から韓国ソウル、満州へ、そこで祖父と結婚した。
そして自分の妹を呼び寄せタイピストの学校に通わせたそうだ。
錦州もあの頃から…何十年経って、多くのものはなくなってしまったが、道端の焼烤、焼き肉串の煙、中国語、こんな中を祖母も暮らしていたんだろうかと考えながら帰路につく。
あの時期の満州暮らしを知る親戚はもういない。何十年経って残っているのは我々のような子供や孫、人だけだ。
祖父母は当時今のような時代が来ることを想像しただろうか。
今回かつて祖父母が住んだ土地を訪れて、人は家族と生きていく為に日々を積み上げるんだなあと思ったりもした。
皆様も是非聞けるうちにおじいちゃんおばあちゃんに聞いてみてほしい。
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